
シュマルカルデン戦争(1546 - 1547年)は、宗教改革によって対立が激化したカトリック勢力とプロテスタント勢力の衝突でした。これは、単なる宗教対立にとどまらず、神聖ローマ帝国内の政治的な駆け引きや皇帝権力の問題とも深く関わっていました。
では、シュマルカルデン戦争はなぜ起こったのか? そして戦後のヨーロッパにどのような影響を与えたのか? 詳しく見ていきましょう!
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16世紀のヨーロッパでは、マルティン・ルターの宗教改革によってプロテスタントが勢力を拡大し、カトリックとの対立が激化していました。
特にドイツでは、多くの諸侯(領主)がルター派を支持し、カトリック教会の支配から離れようとしていたのです。
1531年、ドイツのプロテスタント諸侯たちは、自分たちの信仰を守るためにシュマルカルデン同盟を結成しました。
この同盟には、ザクセン選帝侯やヘッセン方伯などの有力なプロテスタント領主が参加し、神聖ローマ皇帝カール5世(1500 - 1558)のカトリック政策に対抗しようとしました。
皇帝カール5世は、長年シュマルカルデン同盟を警戒していましたが、当初はフランスとの戦争やオスマン帝国の侵攻などに対応する必要があり、プロテスタント勢力に強く介入することができませんでした。
しかし、1540年代に入るとフランスとの和平が成立し、カール5世はプロテスタント弾圧に本腰を入れ始めたのです。そして、1546年にシュマルカルデン戦争が勃発しました。
カール5世率いる皇帝軍は1547年、ミュールベルクの戦いでシュマルカルデン同盟を壊滅させました。主要な指導者であったザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒは捕らえられ、ヘッセン方伯フィリップも降伏しました。
これにより、プロテスタント側は大きく弱体化し、カール5世の支配が強まったのです。
しかし、プロテスタントの信仰が完全に根絶されたわけではありませんでした。戦争に勝利したカール5世でしたが、ドイツ国内でのプロテスタントの支持は依然として根強く、完全なカトリック支配は実現しませんでした。
最終的に、カール5世はプロテスタントとカトリックの共存を認めざるを得なくなり、1555年にアウクスブルクの和議が成立しました。
この和議によって、
といったルールが定められました。
シュマルカルデン戦争は、宗教改革によって生まれたプロテスタントとカトリックの対立が武力衝突に発展した戦争だったんですね! 戦争自体は皇帝側の勝利に終わりましたが、結局プロテスタントの勢力を完全に抑え込むことはできず、最終的にはアウクスブルクの和議によって、宗教の共存が認められることになったのが興味深いですね!