
キリスト教の根幹をなす教義の一つに「三位一体説」があります。これは「父なる神」「子なるキリスト」「聖霊」が、それぞれ異なる存在でありながら、同時に唯一の神であるという考え方です。
宗教改革では、カトリック教会の権威や教義の多くが批判され、ルター派やカルヴァン派といった新しい宗派が生まれました。しかし、意外なことに三位一体説はほとんどのプロテスタントでも維持されました。カトリックに対して数々の異議を唱えた宗教改革者たちが、なぜこの教義は否定しなかったのでしょうか? その理由を探っていきましょう。
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まずは、三位一体説の基本的な考え方を押さえておきましょう。
三位一体説とは、キリスト教の神は「父」「子」「聖霊」の三つの位格を持つが、本質的には唯一の神であるという教えです。この概念は、4世紀のニカイア公会議(325年)とコンスタンティノープル公会議(381年)で正式に教義として確立されました。
三位一体説が確立される以前には、「イエス・キリストは神ではなく、被造物である」とするアリウス派など、さまざまな異端とされた教えが存在していました。三位一体説は、こうした異端を退ける形で定められたのです。
宗教改革では、カトリックのさまざまな教えが批判されました。しかし、三位一体説はほとんどのプロテスタント教会でも受け入れられました。その背景には、いくつかの重要な理由がありました。
ルターやカルヴァンといった宗教改革者たちは、「教会の伝統よりも聖書こそが信仰の唯一の拠り所である」と考えました。三位一体説は、直接的な表現こそないものの、新約聖書のさまざまな箇所に根拠があると解釈されてきました。
例えば、マタイによる福音書28章19節には、イエスが弟子たちに「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けるよう命じる場面があります。こうした記述が、三位一体説を正当化する根拠とされたのです。
宗教改革者たちはカトリック教会を批判しましたが、初期のキリスト教そのものを否定するわけではありませんでした。むしろ、彼らは「カトリック教会が腐敗する前の、純粋なキリスト教に立ち返る」ことを目指していました。
三位一体説は、4世紀の公会議で確立されて以来、長い間キリスト教の正統教義として受け入れられてきました。そのため、改革者たちもこれを維持することに違和感を覚えなかったのです。
宗教改革の時代、三位一体説を否定することは異端と見なされる危険がありました。実際、改革派の中でも、三位一体を否定したグループ(ソッツィーニ派など)は激しく弾圧されました。
プロテスタントの指導者たちは、すでにカトリックと対立する立場にありました。もし三位一体説まで否定してしまうと、カトリックだけでなく、他のプロテスタント勢力からも異端として攻撃されるリスクがあったのです。
ほとんどのプロテスタント教会が三位一体説を維持する中で、一部のグループはこれを否定しました。
16世紀の宗教改革の中で、「神は単一であり、イエスは神ではない」と主張するユニテリアン(単一神論派)が生まれました。彼らは特にポーランドやトランシルヴァニアで活動し、一部の信者を獲得しました。
しかし、ユニテリアンは他のプロテスタントからも異端視され、多くの国では迫害を受けました。そのため、彼らの影響力は限られたものにとどまりました。
宗教改革では、多くの教義が見直されましたが、三位一体説はほとんどのプロテスタントで維持されました。その理由は、聖書に根拠があると考えられたこと、初期キリスト教の伝統を尊重したこと、そして否定すると異端とみなされる危険があったことにあります。
ただし、一部には三位一体説を否定するグループも存在しました。しかし、彼らは少数派であり、主流にはなりませんでした。このように、宗教改革は大胆な変革をもたらしましたが、キリスト教の根本的な教義は意外と守られていたのです。