
宗教改革が始まるきっかけとなったのが、カトリック教会による贖宥状(免罪符)の販売でした。でも、そもそも「贖宥状」って何なのでしょうか? そして、なぜこれがルターをはじめとする改革者たちの怒りを買い、宗教改革の火種となったのでしょうか?
実は、免罪符自体は中世から存在していましたが、16世紀になってお金儲けの道具になってしまったことで、ヨーロッパ中に大きな波紋を広げたのです。今回は、そんな免罪符の歴史や問題点、宗教改革との関係について詳しく見ていきましょう!
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贖宥状(免罪符)とは、「罪を犯した人が、一定の条件を満たすことでその罰を軽くできる」という証書のことです。本来は、罪を償うための善行や祈りと引き換えに与えられるものでした。
しかし、次第に「免罪符を手に入れれば、死後に天国へ行ける」という考え方が広まりました。特に15世紀以降、免罪符は教会の資金集めの手段として使われるようになり、人々に「お金さえ払えば罪が許される」と思わせるようになったのです。
16世紀初頭、ローマ教皇レオ10世(1475 - 1521)は、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の改修工事を進めていました。しかし、これには莫大な資金が必要でした。そこで、教皇はヨハン・テッツェル(1465 - 1519)という修道士を使い、ドイツ各地で大々的に免罪符を販売したのです。
テッツェルは「コインが箱に落ちるたび、魂が天国へ昇る」というキャッチフレーズで、免罪符を売りまくりました。これに対し、マルティン・ルター(1483 - 1546)は「本当にそれで罪が許されるのか?」と疑問を抱きました。彼は「人が救われるのは信仰によるのであって、お金ではない」と主張し、カトリック教会を批判し始めたのです。
1517年、ルターは「95か条の論題」を発表し、免罪符の販売を厳しく批判。この文書は印刷され、瞬く間にヨーロッパ中に広まりました。これが宗教改革の第一歩となったのです。
ルターの批判に対し、カトリック教会は彼を異端とみなしました。1521年にはヴォルムス帝国議会でルターに異端審問が行われ、彼は破門されました。しかし、ルターの考えを支持する人々は増え続け、新たな宗派プロテスタントが誕生するきっかけとなったのです。
ルターの批判をきっかけに、カトリックに対抗する宗派が生まれました。ルター派、カルヴァン派、英国国教会など、さまざまな形のプロテスタントが誕生し、キリスト教の分裂を引き起こしたのです。
宗教改革の影響を受け、カトリック教会も対抗宗教改革を行い、免罪符の販売を禁止しました。これにより、教会は信仰のあり方を見直すようになったのです。
免罪符の問題は、単なる宗教の話にとどまりませんでした。教会の権威が揺らいだことで、「信仰の自由」や「個人の考えを尊重する」という思想が広まり、これが民主主義の発展にもつながっていったのです。
こうしてみると、免罪符は単なるお札ではなく、宗教改革という大きな歴史の転換点を生み出した原因だったんですね! お金で救われるという考えが本当に正しいのか? その今の私達からみると至極まっとうな問いが、世界を変えたわけです。歴史って面白いですね!