
16世紀の宗教改革と聞くと、カトリックとプロテスタントの対立に注目しがちですが、実はオスマン帝国の台頭がこの時代の宗教・政治の動向に大きな影響を与えていました。
「えっ? イスラム帝国であるオスマン帝国と、キリスト教の宗教改革って関係あるの?」と思うかもしれません。しかし、当時のヨーロッパは、オスマン帝国という強大な脅威にさらされており、この存在がカトリック・プロテスタントの対立の形を変える要因となったのです。
では、なぜオスマン帝国の台頭が宗教改革史を語る上で無視できないのか? その理由を詳しく見ていきましょう。
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まずは、宗教改革期のオスマン帝国の状況を確認しておきましょう。
1453年、オスマン帝国のメフメト2世(1432 - 1481)が、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の都コンスタンティノープルを攻略し、キリスト教世界に衝撃を与えました。これによって、東方正教会の中心地はイスラム勢力の手に落ち、正教徒たちはオスマン帝国の支配下で生きることを強いられることになります。
宗教改革が進んでいた16世紀、オスマン帝国はスレイマン1世(1494 - 1566)のもとで最大の領土拡張を進めていました。とりわけ、バルカン半島やハンガリーに侵攻し、1526年のモハーチの戦いではハンガリー王国を破り、オーストリアにまで迫ったのです。
オスマン帝国が拡張を続ける中、ヨーロッパのカトリック諸国は外敵の脅威と宗教改革の混乱の両方に対応しなければならない状況に陥りました。
神聖ローマ皇帝カール5世(1500 - 1558)は、ヨーロッパのカトリック勢力を守ろうとしましたが、同時にオスマン帝国の侵攻にも対処しなければならなかったのです。
カール5世はプロテスタント諸侯を抑え込みたかったのですが、1529年にはオスマン帝国がウィーンを包囲するという事態に直面しました。カトリック・プロテスタントの争いどころではなくなり、対イスラム戦争が優先されたのです。
オスマン帝国の脅威によってカール5世が手を取られている間、プロテスタント諸侯たちは勢力を拡大することができました。特に、ドイツの諸侯は宗教改革を進めやすくなり、結果的にルター派の広がりを後押しすることになったのです。
意外なことに、オスマン帝国とプロテスタントの一部には、共通の敵(カトリック)がいたため、政治的な利害関係が生まれる場面もありました。
フランスのカトリック王フランソワ1世(1494 - 1547)は、宿敵である神聖ローマ皇帝カール5世を倒すため、なんとオスマン帝国と同盟を結びました。カトリックのフランスがイスラム帝国と手を組むなんて、当時としては衝撃的な出来事です。
オスマン帝国は、カトリック勢力を弱体化させるために、プロテスタント諸侯と間接的に接触することもありました。ドイツの一部のルター派諸侯は、オスマン帝国がカール5世を攻撃している間に自分たちの独立性を強める動きを見せたのです。
オスマン帝国の台頭は、宗教改革後のヨーロッパにも大きな影響を与えました。
プロテスタントの拡大に対抗するため、カトリックは対抗宗教改革を進めましたが、オスマン帝国の脅威があったため、これに全力を注ぐことはできませんでした。特に、スペインや神聖ローマ帝国は軍事的にもオスマン帝国との戦いに追われることになったのです。
17世紀に入ると、オスマン帝国の影響は少しずつ弱まりました。しかし、ヨーロッパの勢力図は宗教改革とオスマン帝国の台頭によって大きく塗り替えられたのです。カトリック・プロテスタントの対立は最終的に三十年戦争(1618 - 1648)へと発展し、その裏にはオスマン帝国との長年の戦いが関係していました。
オスマン帝国の台頭は、宗教改革の展開に大きな影響を与えました。特に、カール5世がオスマン帝国の侵攻に対応するため、プロテスタント諸侯を抑え込む余裕がなかったことは、宗教改革の成功に大きく貢献しました。
さらに、フランスとオスマン帝国の同盟や、プロテスタント諸侯との間接的な関係など、キリスト教世界とイスラム世界が複雑に絡み合う場面も見られました。こうして見ると、宗教改革は決してヨーロッパ内部だけの問題ではなく、オスマン帝国という外部の勢力とも密接に関わっていたことがよくわかりますね。