
ジョン・ウィクリフ(1320年頃 - 1384年)は、宗教改革よりも約150年前に活躍したイギリスの神学者で、後の宗教改革に大きな影響を与えた人物です。彼はカトリック教会の権威を批判し、聖書の英訳を進めるなど、ルターよりも早く「教会改革」の必要性を訴えていました。
しかし、その革新的な考えは当時のカトリック教会にとって危険視され、死後に異端認定され、遺体まで処罰されるという異例の事態となりました。
では、ウィクリフとはどのような人物だったのか? 彼の思想はなぜ危険視されたのか? 詳しく見ていきましょう!
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ウィクリフは14世紀のイギリスでオックスフォード大学の神学者として活躍しました。彼はカトリック教会の在り方に疑問を抱き、教皇や聖職者の腐敗を批判するようになります。
当時の聖書はラテン語で書かれており、一般の人々が読むことはできませんでした。ウィクリフは「信仰の中心は聖書であり、教会の権威ではない」と主張し、聖書を英語に翻訳する活動を進めました。
ウィクリフは「教会の財産や権力は不要」と考え、貧しい生活を送ることこそ本来のキリスト教の姿だと説きました。これにより、富と権力を持つカトリック教会と対立することになります。
ウィクリフは「聖書こそが信仰の唯一の拠り所であり、教皇や聖職者の解釈は必要ない」と主張しました。この考え方は、後にルターやカルヴァンが掲げる「聖書のみ(Sola Scriptura)」の思想へとつながっていきます。
ウィクリフは教会から異端の疑いをかけられましたが、イギリス王室の保護もあり、処刑を免れました。しかし、晩年になると支持者も減り、オックスフォード大学から追放され、田舎で静かに過ごすことを余儀なくされました。
ウィクリフは1384年に自然死しましたが、1415年にコンスタンツ公会議によって異端認定されました。そして1428年、カトリック教会は彼の遺体を墓から掘り起こし、焼却して処刑するという異例の処罰を行いました。
ウィクリフの思想はイギリスの宗教改革に大きな影響を与えました。彼の支持者たちは「ロラード派」と呼ばれ、後の宗教改革の土台を作ることになります。また、彼の聖書英訳の試みは、後のプロテスタントによる聖書翻訳の先駆けとなりました。
ジョン・ウィクリフは宗教改革の先駆者ともいえる人物だったんですね! 彼の「聖書のみ」の思想や英訳の試みは、ルターやカルヴァンの宗教改革につながる重要な動きでした。死後に遺体まで処罰されたというのは、カトリック教会が彼の影響力をどれほど恐れていたかを示しているようで、とても興味深いですね!